『職業としての政治』

著者は、社会科学者のマックス・ヴェーバー。1919年の作品。筆者が読んだのは岩波文庫版。

「近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能となる。」(p.9)

「もちろん暴力行使は、国家にとってノーマルな手段でもまた唯一の手段でもない(略)が、おそらく国家に特有な手段ではあるだろう。」(p.9)

「国家とは、ある一定の領域の内部で(略)正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり国家が暴力行使への『権利』の唯一の源泉とみなされているということ、(略)だから、われわれにとって政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいであろう。」(pp.9-10)

「国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も、正当な(正当なものとみなされている、という意味だが)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。だから、国家が存続するためには、被治者がその時の支配者の主張する権威に服従することが必要である。では被治者は、どんな場合にどんな理由で服従するのか。この支配はどのような内的な正当化の根拠と外的な手段とに支えられているのか。」(p.10-1)

「まず、支配の内的な正当化、つまり正当性の根拠の問題から始めると、これには原則として三つある。第一は「永遠の過去」がもっている権威で、これは、ある習俗がはるか遠い昔から通用しており、しかもこれを守り続けようとする態度が習慣的にとられることによって、神聖化された場合である。古い型の家父長や家産領主のおこなった『伝統的支配』がそれである。」(p.11)

「第二は、ある個人にそなわった非日常的な天与の資質(カリスマ)がもっている権威で、その個人の啓示や英雄的行為その他の指導者的資質に対する、まったく人格的な帰依と信頼に基づく支配、つまり『カリスマ的支配』である。」(p.11)

「最後に『合法性』による支配。これは制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な『権限』とに基づいた支配で、逆にそこでの服従は法規の命ずる義務の履行という形でおこなわれる。近代的な『国家公務員』や、その点で類似した権力の担い手たちのおこなう支配はすべてここに入る。」(pp.11-2)

「もちろん実際の服従で非常に強い動機となっているのは、恐怖と希望――魔力や権力者の復讐に対する恐怖、あの世やこの世での報奨に対する希望――であり、また、それと並んでさまざまな利害関心が考えられる。(略)[ただ]この服従の『正当性』の根拠を問いつめていけば、結局は以上の三つの『純粋』型につき当たるわけである。」(p.12)

「どんな支配機構も、継続的な行政をおこなおうとすれば、次の二つの条件が必要である。一つはそこでの人々の行為が、おのれの権力の正当性を主張する支配者に対して、あらかじめ服従するよう方向づけられていること。第二に、支配者はいざという時には物理的暴力を行使しなければならないが、これを実行するために必要な物財が、上に述べた服従を通して、支配者の手に掌握されていること。ようするに人的な行政スタッフと物的な行政手段の二つが必要である。」(p.14)

「近代国家の発展は、君主の側で、自分と肩を並べている行政権力の自立的で『私的な』担い手に対する収奪が準備されるにつれて、どこでも活発化してきた。この場合の『私的な』担い手とは、行政手段、戦争遂行手段、財政運営手段その他の・政治的に利用できるあらゆる種類の物財を、自分の権利として所有している者のことである。この全過程は独立生産者層が徐々に収奪されていって、資本制経営が発展してくる過程と完全に並行している。結局、近代国家では、政治運営の全手段をうごかす力が事実上単一の頂点に集まり、どんな官吏も自分の支出する金銭、自分の使用する建物・備品・道具、兵器の私的な持ち主ではなくなる。こうして、今日の『国家』では――そしてこの点こそ近代国家概念にとって本質的なことなのだが――行政スタッフ、つまり事務官僚と行政労務者の・物的行政手段からの『分離』が完全に貫かれている。」(p.17)

「生粋の官吏は(略)その本来の職分からいって政治をなすべきではなく、『行政』を――しかも何より非党派的に――なすべきである。」(p.40-1)

「政治指導者の行為は官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。官吏にとっては、自分の上級官庁が、――自分の意見具申にもかかわらず――自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に――あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように――執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。こうした人間が(略)指導的地位にいていつまでも跡を絶たないという状態、これが『官僚政治』と呼ばれているものである。」(p.41-2)

「一体どんな資質があれば、彼[職業政治家]はこの権力(個別的に見てそれがどんなに限られた権力であっても)にふさわしい人間に、また権力が自分に課する責任に耐えうる人間になれるのか。ここにいたってわれわれは倫理的問題の領域に足を踏み入れることになる。どんな人間であれば、歴史の歯車に手を掛ける資格があるのかという問題は、たしかに倫理的問題の領域に属している。」(p.77)

「政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)――責任感(Verantwortungsgefühl)――判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり『事柄』(『仕事』『問題』『対象』『現実』)への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。」(p.77)

「情熱は、それが『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる、つまり事物と人間に対して距離を置いてみることが必要である。」(p.78)

「政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離――この場合、自分自身に対する距離――にとって不倶戴天の敵である。」(p.79)

「政治家の活動には、不可避的な手段としての権力の追求がつきもの(略)ところがこの権力追求がひたすら『仕事』に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒涜が始まる。政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に即しない態度と、(略)無責任な態度の二種類にしぼられるからである。虚栄心とは、自分というものをできるだけ人目に立つように押し出したいという欲望のことで、これが政治家を最も強く誘惑して、二つの大罪の一方または両方を犯させる。」(pp.79-80)

「およそ政治というものは、それが目指す目標とはまったく別個に、人間生活の倫理的な営みの中でどのような使命を果たすことができるのか。言ってみれば、政治の倫理的故郷はどこにあるのか。」(p.82)

「政治が権力――その背後には暴力が控えている――というきわめて特殊な手段を用いて運営されるという事実は、政治対する倫理的要求にとって、本当にどうでもよいことだろうか。」(p.85)

「倫理的に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停し難く対立した準則の下に立ちうるということ、すなわち『心情倫理的』に方向づけられている場合と、『責任倫理的』に方向づけられている場合があるということである。(略)人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば『キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる』――か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である。」(p.89)

「サンディカリストは、純粋な心情から発した行為の結果が悪ければ、その責任は行為者にではなく、世間の方に(略)あると考える。責任倫理家はこれに反して、人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れる。つまり(略)人間の善性と完全性を前提してかかる権利はなく、自分の行為の結果が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁することはできないと考える。」(p.90)

「この世のどんな倫理といえども(略)『善い』目的を達成するには、まずたいていは、道徳的にいかがわしい手段、少なくとも危険な手段を用いなければならず、悪い副作用の可能性や蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけにいかない。また、倫理的に善い目的は、どんな時に、どの程度まで、倫理的に危険な手段と副作用を『正当化』できるかも、そこでは証明できない。政治にとって決定的な手段は暴力である。倫理的に見て、この手段と目的との間の緊張関係がどんなに重大な問題を孕んでいるか(略)」(pp.90-1)

「この目的による手段の正当化の問題にいたって、心情倫理も結局は破綻を免れないように思われる。実際、この心情倫理には――論理的につきつめれば――道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。」(p.92)

「心情倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である。またかりにわれわれが、目的は手段を神聖化するという原理一般をなんらかの形で認めたとしても、具体的にどのような目的がどのような手段を神聖化できるか、を倫理的に決定することは不可能である。」(pp.92-3)

「人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。」(p.97)

「およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。」(pp.99-100)

「自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法によって求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。」(p.100)

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ。」(pp.105-6)