『人間・この劇的なるもの』

著者は、評論家・翻訳家・劇作家の福田恆存。昭和31(1955)年の作品。筆者が読んだのは新潮文庫版。

「なにかの役割を演じること、それが、この現実の人生では許されないのだ。」(p.11)

「私たちの社会生活が複雑になればなるほど、私たちは自分で自分の役を選びとることができない。また、それを最後まで演じきって、去って行くこともできない。私たちの行為は、すべて断片で終わる。(略)未来はただ現在を中断するためにだけやってくるのだ。(略)が、私たちは、現在の中断でしかない未来を欲してはいない。(略)私たちの欲する未来は、現在の完全燃焼であり、それによる現在の消滅であり、さらに、その消滅によって、新しき現在に脱出することである。」(pp.11-2)

「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているのだという実感だ。(略)生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。」(p.17)

「私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。(略)私たちは自己の宿命のうちにあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌剌さを味わえるのだ。自己が居るべきところに居るという実感、宿命感とはそういうものである。」(p.23)

「すべてを宿命と思いこむことによって、無為の口実を求めることも自己欺瞞なら、すべてが自由であるという仮想のもとに動きながら、つねに宿命の限界内に落ちこみ、なお自由であると思いこむことも、やはり自己欺瞞なのである。」(p.24)

「純粋な意識の真の緊張を呼び起すもの、それが私のいう演戯である。」(p.32)

「私たちの意識は、平面を横ばいする歴史的現実の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがろうとして、たえずあがいている。そのための行為が演戯である。」(p.33)

「演戯によって、ひとは日常性を拒絶する。」(p.33)

「意識は過去・現在・未来の全体を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味わうことができるのだ。」(p.35)

「今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。」(p.35)

「じつは、全部が見とおせてしまったからこそ、私たちは部分になりさがってしまったのだ。(略)知識階級の陥っている不幸の源は、すべてそこにある。」(p.36)

「私たち個人がたんなる部分にすぎないという覚悟を欠くならば、いや、それを欠いているがゆえに、私たちはたんなる部分的断片以上に出ることができないのだ。(略)私たちが個人の全体性を回復する唯一の道は、自分が部分にすぎぬことを覚悟し、意識的に部分としての自己を味わいつくすこと、その味わいの過程において、全体感が象徴的に甦る。よくいわれる自我の確立というのは、そういうことだ。」(p.36)

「個人の全体性、いいかえれば、その必然性を確立するためには、現実の偶然を拒絶しなければならぬと、私はいった。(略)私たちは自分の能力を無視して、あまりにも多くの偶然に身をゆだねすぎる。したがって、私たちの意識は、いつになっても現実の平面から直立しえない。」(p.37)

「ひとつの必然を生きようという烈しい意思」「演戯とは現実の拒否と自我の確立のための運動である」(p.38)

「いかなる個人も、もしその生涯を必然化しようとするならば、べつのことばでいえば、完全に自由であろうとするならば、自分の死を必然化しなければならぬのである。人間にとって唯一の不可能事である。」(pp.66-7)

「人間のおこなうすべての行為についていいうることだが、それが真に必然であるためには、その事前において、すべてを偶然にまかせなければいけないのだ。偶然のなかに自分を突き放すこと、のみならず、できうるかぎり必然を避けること、そうしなければ、私たちは自分の宿命に達しえない。」(p.68)

「必然を求めるものにとって、もっとも誘惑的なのは、仮装の必然性である。」(p.68)

「人格が完全な自律体であるのは、全体との関聯をみずから調整しうるということにすぎない。それは部分でありながら、全体を意識し、全体を反映し、自ら意思して全体の部分になりうるということなのだ。真の意味における自由とは、全体のなかにあって、適切な位置を占める能力のことである。全体を否定する個性に自由はない。すでに在る全体を否定し、これを自分につごうのいいように組織しなおすことは、部分たる個人のよくなしうることではない。」(pp.97-8)

「全体の本質はつねに未知のものとして、私たちの上に蔽いかぶさっていなければならぬ。」(p.118)

「かれ[ソクラテス]は全体というものを知りえぬことを知っていたのであり、無智という段階にとどまっていなければ、全体をつかみえぬことを知っていたのである。」(p.119)

「心貧しきものこそ、さいわいだといったイエスのことばは、(略)論理的にいえば、知識は部分にしか関与せず、部分的な知識をいくら重ねても全体にはならぬということであり、それは、部分と全体との次元の相違を指摘しているのである。ついに全体を認識しえぬ以上、十の知識も千の知識も同断だと、イエスはそういっているのであり、その差に優越感をいだいていたパリサイ人を笑ったのである。」(p.141)

「個人が自分ひとりの手で、自分の気に入るように全体を調整しようという思いあがりであり、その意思につきあってくれぬ全体とは絶縁するということであり、さらに、その絶縁によって、部分にすぎぬ自己を全体と錯覚し、その全体の名において、社会的な秩序を失った世間の生活者を批判しようということである。(略)多くの知識階級の落ちこみやすい陥穽がここにある。」(pp.142-3)

「私たちは、認識において、現実の資料をすべて知りつくすことができないと同様に、行動においても、生涯、一貫した必然性を保持することはできない。一生を整え、それに必然の理由づけを附することは、ついに個人の仕事ではありえないのだ。個人は全体を自己に奉仕せしめることはできず、自己を全体に奉仕せしめなければならない。必然性というものは、個人の側にはなく、つねに全体の側にある。個人の脱落は敗北は、全体の必然性を証明するためにのみ正当化される。」(p.143)

「必然とは部分が全体につながっているということであり、偶然とは部分が全体から脱落したことである。とすれば、個人がみずからの配慮で自己の行為に必然性を附与しようとするストイシズムは、個人の能力を超えた緊張を必要とするであろうし、そして、その緊張には、私たちは長くは堪えられず、(略)最後には、かならずその努力を抛棄してしまうであろう。型にしたがった行動は、私たちをそういう緊張から解放してくれ、行動をそれ自体として純粋に味わいうるようにしむけてくれる。そのときにおいてのみ、私たちは、すべてがとめどない因果のなかに埋もれた日常生活の、抹消的な部分品としての存在から脱却し、それ自身において完全な、生命そのものの根源につながることができるのだ。」(pp.154-5)

「私たちは生それ自体のなかで生を味わうことはできない。死を背景として、はじめて生を味わうことができる。死と生との全体的な構造のうえに立って、はじめて生命の充実感と、その秘密に参与することができるのだ。」(p.156)